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本日の猫カフェ

annui
憲法解釈間違っとるよ、小沢クン...
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隣人祭り

某省のプロジェクトを通じて知り合った友人が、人づくりから始まるまちづくりという本を出版しましたー!

彼と出会った仕事自体が「地域コミュニティの再生」に関するもので、様々なことを話し合ったり、アイディアや意見を出し合ったりするうちに、「おや、おまいさんもそう思うかえ?」みたいな感じで問題解決への方向性が似ていたりして、現在もいろいろと親しくさせていただいてます。

本の構成は
1 おいたち
2 福岡で感じたこと
3 東京で感じたこと
4 福岡に戻って感じたこと
5 うつ病になって感じること
6 団地生活を始めて感じること
7 最近の報道で感じること
8 「隣人祭り」を知って感じること
9 ボランティア活動を始めるようになったきっかけ
10 地球環境問題などに関して感じること
11 豊かな暮らしに向けての提言

自然豊かな広島の呉市で育ち、幼い子ども2人のお父さんとして、コンサル会社のリーマンとして、福岡に住む一生活者の視点から地域や暮らし、社会のあり方に関する様々な問題を考え、改良に向けたアイディアが簡潔にまとめられた読みやすい本です。
興味のある方はぜひご一読ください。

で、この中に出てくる隣人祭りってご存じですか?

本からちょいと抜粋させてもらうと
「フランスで老人をはじめとした孤独死が多発しており、何とかするために同じアパートや地域の人を集めた屋外食事会を開催。これがきっかけで地域コミュニティが再生され、街は安全になった。隣人祭りは現在、フランス全土~全世界に広まっている」
彼は隣人祭りを「向こう三軒両隣や長屋暮らしといった、日本古来の伝統文化が逆輸入されている」と指摘しています。

隣人祭りのことは彼から聞いて始めて知ったのですが、それを遡ること3年近く前に、私も突発的隣人祭りを開催したことがあります。
花見か何かで早々に出来上がり、余ったお酒や食料を持って昼過ぎの帰宅中、お隣さんの窓が開いていてPCに向かう隣人が見えたので(うちはマンションの9Fです)、「何してんですかー」と声をかけつつ「お酒がほら、こんなにっ」と窓際に並べ始めて、ついにマンション通路で宴会開始。エレベータで上がってくる他室の隣人も次々と拉致同然に集め、暗くなるまで酒盛りを行ったのでした。
それまではお互い挨拶しか交わしたことない人たちで、素面では絶対あり得ない出来事でしたが。。

仕様もない酔っぱらいと認識されたには違いないですが、それ以降は宅配の荷物を預かってくれたりなんてこともあるし、まぁ良かったのではないかしら。
こんな感じで、隣人祭りはいつでもどこでも開催できます。皆さんもぜひ!

そういえばワタクシ、この会の副代表という名前をいただいているのでした。
自然や環境系に疎くて、今のところ役立たずという役目しか負っていません。スミマセン。。

本日の猫カフェ

domo
忘年会の連チャンでお疲れ気味の飼い主を、みんなで再現してみました

Think different.

古いけどお気に入りのCMの一つ。


アインシュタイン、ボブ・ディラン、エジソン、マリア・カラス、ガンジー、ヒッチコック、ピカソ etc.
素敵な人たちがたくさん登場するAppleのキャンペーンCMには、黒澤明や手塚治虫、ダライ・ラマやチャップリンなど様々なバージョンがあります。
CMがつくられた1997年はウィンドウズ95がすごい勢いで世の中を席巻していて、Macユーザーはなんとなく負け犬扱いされていた時期。

Quadra、Performa、Power Macintosh、Power Mac G3・G4、Power Book、iBook、iMac・・・私のMac遍歴は十数年になりますが、Mac使いはかな~り少数派で心細かった。。
現在はウィンドウズでもできるけれど、この頃まではMacじゃないと、デザインも映像編集もできなかったんですよぅ

でも当時、映像等の制作会社に所属していた私の仕事はシナリオやコピー・企画書を書いたり、映像制作のディレクションなどだったので、別にMacでなければならない必然はなかったし、現在だって文字+ちょっとしたグラフィックができれば、Macでもウィンドウズでも何でも良いと言えば良いのです。

それに、Macってヤツは何と言いますか、生きモノみたいな愛らしさと憎らしさが同居しているコンピュータで、特に昔は爆弾アイコンは出すわ、大切なデータと共に突然お亡くなりになるわ。今でも忙しいときに限って調子が悪いとか言い出すし、企画書や報告書なんかを必死に作っていると見計らったように固まってくれて、ギリギリ歯ぎしりしながら作り直す、なこともありますが。

それでもずっとMacと一緒に過ごしてきたのは、「こんな社会のために、こんな人たちのために、コンピュータを作り続けるよ」っていうAppleの理念やスタイルが、大好きだからです。
加えてAppleのメッセージは、ブレない。(カリスマ創業者・スティーブ・ジョブズの影響も大きいと思うけど)
値段だけを訴求したり、ブランディングとか何とか言って取って付けたような美辞麗句を並べられると、げんなりするのは私だけですかね?

ちなみにAppleの初CMは、コンピュータに管理された全体主義的な暗黒社会を描いたジョージ・オーウェルの小説「1984」がテーマでした。



『1984年1月24日,アップル社はMacintoshを発表いたします。そしてわれわれは,今年1984年が小説『1984』に描かれているような年にならないということをお目にかけましょう』

ハンマーで壊されるBig Brother(支配者)は、コンピュータ産業の巨人だったIBMのことも暗示していたそうですが、そのIBMは既に家庭用PCから撤退しています。
私がMacを初めて入手した頃はパソコン通信というものがありましたが、「知らない人とやり取りするなんてヤダー」ってな感覚で、ゲームや書類作りの限定使用でした。それからまだ10年ちょっとしか経たないのに、今では「ネットが繋がらないなんてあり得ない」生活になり果ててるし。
変わらないモノなど何もない・・な諸行無常を感じます。

最近はこの女性がiPodを聞きながらハンマーを投げるリメイクバージョンや、アップル帝国を皮肉ったパロディバージョンも登場していますが、普遍性のある思想やメッセージは、どんな時代になっても、形が変わったとしても、ずっと繋がっていくのでしょう。人々に大きな影響を与えたという意味では、こちらもThink different.なCMだと思うのです。

そして、今も同じテーマで作品が成立するということは、『1984』の危険性は未だ存在しているということでもありますね。

本日の猫カフェ

shah
牙が出ていますよ、お嬢さん

『てなぐさみ』vol.2

期間中、京都まで行けないアナタのために、WEB上個展を開催いたします。
めっちゃ太っ腹・・っていうか、現地でも入場料などとってないですからねw

ギャラリーでコーヒーやビールを飲んでくれたら、そのお代の一部が作家さんの稼ぎになりますので、お近くの方はぜひ見に行って何か飲んで頂戴。


shinbun
新聞紙の手作りダンボール箱

\100
100円札のダンボール箱

pencase
ペンケース

carton
文庫本のダンボール箱

hilite2
ハイライト

『てなぐさみ』文章篇

以前、現代アート作家でギャラリー・Ponto15のオーナーでもあるLICCAさんの紹介記事27歳の頃を書いたことがあって、その中に『評価が定型化した古典芸術とは違い、まだ明らかでない時代の息吹を先取りして提示する現代アートは、しばしば私たちが盲目的に「常識」と信じている価値観を超える』という我ながら好きなフレーズがあるのですが(自画自賛)、現代アートは常識を飛び越えている分、何を表現しているのか分かりにくいことがあります。

「見て感じろ」と仰る作家さんも結構いらっしゃいますが、作品を前に暗中模索状態の鑑賞者側としては、文章の援護射撃で何かを感じたり考えたりするきっかけをもらえると、大層ありがたいものです。
その点このギャラリーは、作家さんが、キュレーターや批評家さんとコラボして展示を行うスタイルをとっているところが、非常によろしいのですよ。

ではっ、キュレーターによる個展『てなぐさみ』の紹介文です。

-qte-

池田慎個展に寄せて
「ムダ」なコミュニケーションの話し

池田慎の面白さを言葉にするのはとても難しい。といってもフランス現代思想とオタクカルチャに精通しているものだけが面白さを経験出来るといった類のものではないし、ましてや現代美術史を入念に読み解くものだけが理解出来るわけでももちろんない。実は、その逆、つまり彼の作品は誰がどのように見てもわかりやすく面白い。だから言葉にする必要がない。
といって文章を終わりにするわけにいかないのが悲しいところだ。私には、彼、池田慎の何が重要であるのか説明する責任がある。

少し回り道になるかもしれないが以前の作品から考えてみよう。
過去の展覧会で出品されていた作品に「過剰包装」と言うタイトルのものがある。これは誰もが知っているチョコボールのパッケージが仏壇のように観音開きになっており、小さな扉を開いたその内側には細密で絢爛な祭壇、そして中央にチョコボールが一粒鎮座ましましているという実にくだらないものだ。もちろんこれは褒め言葉であって、この作品を見たものは過剰包装という言葉のイメージが行き場なく空転している姿を見て、その名の通り「過剰な」、「ベタ」さと「ムダ」さに思わずにやりとしてしまう。このような彼の「ベタ」で「ムダ」な作品に対して以前私は「オヤジギャグ的」と評した事がある。彼の作品と共通するオヤジギャグというものは、日常的に用いられる言葉の音と意味の結びつきをずらし、組み替ることによりコミュニケーションをはかる行為であって、社会的な制度を脱臼させつつ再生産するというマイナな抵抗の手段ともいえる。
しかし、「マイナな抵抗の手段」と言う言葉それだけでは彼の「ベタ」と「ムダ」を完全には説明できてはいない。それだけではオヤジギャグ的という時の大事なニュアンスが抜け落ちている。オヤジギャグというものに本当に重要なのは、抵抗という小さなイデオロギーに回収される事のないものであって、本来は、権力の有無に関係ない「ムダ」を通じてのコミュニケーションなのだから。

考えてみて欲しい。そもそもコミュニケーションとは生活における「必要」に支えられた情報の伝達である。伝えたい言葉を伝えたい人に向けて発するその身振り、表情、言葉、そのプロセスの全てに「必要」が満ちている。それが我々の生活する社会なのだ。が、しかし池田の作品はそれとは別のコミュニケーションを志向している。つまりそれが上述した、オヤジギャグ的な、「ムダ」を通じてのコミュニケーションなのである。「ムダ」であること、それは永遠の成長を志向する現代社会において、さも悪であるかように語られる。しかしオヤジギャグ的コミュニケーションはその「ムダ」を通して、意味的・限定的ではないコミュニケーションが存在しうる事を示唆している。必要と合理と有意味で動いているように見える社会が切り捨ててきた「ムダ」が、実は、彼の作品や「オヤジギャグ」におけるそのチャーミングなそぶりで、全体性(あるいは身体性)を伴ったコミュニケーションとなり、社会の原動力となっていること、それが、私が彼の作品に感じた社会的な可能性だ。

最後にひとつ。やはりこの文章も彼の明け透けでわかりやすい作品の前では最初から最後まで「ムダ」であったのかも知れない。ただ、これこそが彼と、私と、そして社会の必要とするコミュニケーションだと付け加えておきたいと思う。

櫻岡聡(CPG)


-unqte-

個展『てなぐさみ』

本日から京都のギャラリー・Ponto15で個展が開催されています。

ハイライトの箱にハイライトが横たわっているのとか
hilite

pocky
ポッキーの箱にポッキーが横たわっているのとか

cupnoodle
刺繍されたカップヌードルとかです。

ほのぼのと笑える作品たちですが、実は凄いんじゃないかと思うのです。

本日の猫カフェ

plus1
蜷局を巻く3匹の家猫+にゃン
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