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『てなぐさみ』文章篇

以前、現代アート作家でギャラリー・Ponto15のオーナーでもあるLICCAさんの紹介記事27歳の頃を書いたことがあって、その中に『評価が定型化した古典芸術とは違い、まだ明らかでない時代の息吹を先取りして提示する現代アートは、しばしば私たちが盲目的に「常識」と信じている価値観を超える』という我ながら好きなフレーズがあるのですが(自画自賛)、現代アートは常識を飛び越えている分、何を表現しているのか分かりにくいことがあります。

「見て感じろ」と仰る作家さんも結構いらっしゃいますが、作品を前に暗中模索状態の鑑賞者側としては、文章の援護射撃で何かを感じたり考えたりするきっかけをもらえると、大層ありがたいものです。
その点このギャラリーは、作家さんが、キュレーターや批評家さんとコラボして展示を行うスタイルをとっているところが、非常によろしいのですよ。

ではっ、キュレーターによる個展『てなぐさみ』の紹介文です。

-qte-

池田慎個展に寄せて
「ムダ」なコミュニケーションの話し

池田慎の面白さを言葉にするのはとても難しい。といってもフランス現代思想とオタクカルチャに精通しているものだけが面白さを経験出来るといった類のものではないし、ましてや現代美術史を入念に読み解くものだけが理解出来るわけでももちろんない。実は、その逆、つまり彼の作品は誰がどのように見てもわかりやすく面白い。だから言葉にする必要がない。
といって文章を終わりにするわけにいかないのが悲しいところだ。私には、彼、池田慎の何が重要であるのか説明する責任がある。

少し回り道になるかもしれないが以前の作品から考えてみよう。
過去の展覧会で出品されていた作品に「過剰包装」と言うタイトルのものがある。これは誰もが知っているチョコボールのパッケージが仏壇のように観音開きになっており、小さな扉を開いたその内側には細密で絢爛な祭壇、そして中央にチョコボールが一粒鎮座ましましているという実にくだらないものだ。もちろんこれは褒め言葉であって、この作品を見たものは過剰包装という言葉のイメージが行き場なく空転している姿を見て、その名の通り「過剰な」、「ベタ」さと「ムダ」さに思わずにやりとしてしまう。このような彼の「ベタ」で「ムダ」な作品に対して以前私は「オヤジギャグ的」と評した事がある。彼の作品と共通するオヤジギャグというものは、日常的に用いられる言葉の音と意味の結びつきをずらし、組み替ることによりコミュニケーションをはかる行為であって、社会的な制度を脱臼させつつ再生産するというマイナな抵抗の手段ともいえる。
しかし、「マイナな抵抗の手段」と言う言葉それだけでは彼の「ベタ」と「ムダ」を完全には説明できてはいない。それだけではオヤジギャグ的という時の大事なニュアンスが抜け落ちている。オヤジギャグというものに本当に重要なのは、抵抗という小さなイデオロギーに回収される事のないものであって、本来は、権力の有無に関係ない「ムダ」を通じてのコミュニケーションなのだから。

考えてみて欲しい。そもそもコミュニケーションとは生活における「必要」に支えられた情報の伝達である。伝えたい言葉を伝えたい人に向けて発するその身振り、表情、言葉、そのプロセスの全てに「必要」が満ちている。それが我々の生活する社会なのだ。が、しかし池田の作品はそれとは別のコミュニケーションを志向している。つまりそれが上述した、オヤジギャグ的な、「ムダ」を通じてのコミュニケーションなのである。「ムダ」であること、それは永遠の成長を志向する現代社会において、さも悪であるかように語られる。しかしオヤジギャグ的コミュニケーションはその「ムダ」を通して、意味的・限定的ではないコミュニケーションが存在しうる事を示唆している。必要と合理と有意味で動いているように見える社会が切り捨ててきた「ムダ」が、実は、彼の作品や「オヤジギャグ」におけるそのチャーミングなそぶりで、全体性(あるいは身体性)を伴ったコミュニケーションとなり、社会の原動力となっていること、それが、私が彼の作品に感じた社会的な可能性だ。

最後にひとつ。やはりこの文章も彼の明け透けでわかりやすい作品の前では最初から最後まで「ムダ」であったのかも知れない。ただ、これこそが彼と、私と、そして社会の必要とするコミュニケーションだと付け加えておきたいと思う。

櫻岡聡(CPG)


-unqte-

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